DQFF考察2
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結論から先に言えば、
言い換えれば、
そもそもプレイヤーに選択の自由を与えるために作られたシステムではない
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だから、
たとえ瞬間的にでもプレイヤーに強烈なインパクトを与えられればよい
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その最たる例が、
序盤は大活躍するが中盤以降は御役御免となるファイターやモンク
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といったところだろう。
FF3のジョブとFF5のジョブは、一見すると同じような枠組みのシステムだが、設計思想が根本的に違うのである。
RPGというのは、
だから、
“より道なんてしたくない、早く話の続きを知りたい”と思わせてしまうようなシナリオは逆にマズイ
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その意味で、
RPGと小説や映画では、シナリオの作りかたが根本的にちがう
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より具体的に説明すれば、
RPGのシナリオは、話の流れの美しさや調和よりも、個々のイベントのインパクトに力を置くのが普通
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という訳だ。FF1〜6はその分かり易い例だろうな。
FF3のジョブだのRPGのシナリオだのを考察しているうちに、DQFF型RPGの魅力は“思い出作り”、もっと言えば“思い出として残りそうな印象的な出来事”にあるのではないかと感じはじめた。
その視点から考えると、
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DQ1のラリホーは理不尽(敵のラリホーは抵抗不能)だが、その理不尽さも今となっては良い思い出だ。DQ2のロンダルギアも同様。
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FF4はFFでは珍しくキャラ特性が固定されている。これはプレイヤーの選択の幅という点では他のFFに大きく見劣りするが、その代わりに各キャラの印象を強烈に残せたのだから、ある意味で“成功”ではなかろうか。
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逆に言えば、
例えば、DQ7には多数のボス敵が存在するが、DQ3のカンダダ+ヤマタノオロチ+ボストロール+バラモス+ゾーマ&しもべ3体のインパクトに負けている。数が多ければ良いという訳ではないのだ。
成長システムの自由度は大きいほうが良い。…ただし、
それが必須条件だ。
例えば、
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ハッスルダンスや怒涛の羊の取得の有無で、体感難易度が変わってしまうDQ6〜7。
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精製アビリティと力上昇系アビリティの取得の有無で、体感難易度が変わってしまうFF8。
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やり込み前提のゲームならともかく、DQやFFで上記のような構造を搭載するのは、あまり好ましくないだろう。
逆に、その点で成功しているのはDQ3やFF5である。これらの作品はそれぞれ独特のやりかたで自由度と難易度のバランスを解決している。
DQ3 | ずばり「戦士+僧侶+魔法使いが最適な組み合わせ」だとアリアハンで教えてもらえる。それ以外の組み合わせは自己責任なので、たとえ変な組み合わせで苦労しても、プレイヤーの不満は自分の無謀さ愚かさに向く。 |
FF5 | ジョブ特性だけでアレイズやケアルガといった重要魔法を使用できる。アビリティ取得の選択がうまくいかなくても不利にならないというのがポイント。 |
よくよくアルティミシア城を思い出して頂きたい。
動いている鐘のうえに乗れることに気づいたら、ティアマトと戦える。気づかなかった奴はお手上げ
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絵画が単語の意味そのものではなく、単語を構成するローマ数字に意味があると気づいたら、ドルメンと戦える。気づかなかった奴はお手上げ
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キャラクターに“重さ”が設定されていることに気づいたら、カトブレパスと戦える。気づかなかった奴はお手上げ。偶然に気づく可能性がそこそこ高いので、上の2つよりマシだが、それでも理不尽なことには変わりない
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皆、重々承知していると思うが、
アルティミシア城の謎ときは実質的にノーヒント。試行錯誤の繰り返しか偶然の発見に頼るしかない
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まとめると、
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理不尽。
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ヒントが少なすぎる。
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常識的に考えて「そんな訳ないだろ…」と思うようなことを平気でやる
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気づければ楽勝。
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気づかなかったら絶望的。
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この構造、なにかに似てないか? …そう、
FF8は、アルティミシア城的な構造が、システムとシナリオに至るまで徹底されている
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多くのプレイヤーがFF8のシステムやシナリオに感じた不親切さは、決して手抜きやチューニング不足に依るものではない。
何故なら、
分かりにくくするために、逆に開発の手間が掛かっている
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例えば、
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サイファーが魔女の騎士に憧れるのは映画の影響だと誰かに口頭で伝えさせれば、そもそもラグナ編4(映画撮影)は要らなかった。トラビア警告とルブルムドラゴン退治のミニゲームを作る必要も無かったのだ。
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普通にモンスターのデータを作るより、レベル連動制のほうが大変。
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つまり、
多くのプレイヤーがFF8に感じた理不尽さは、おそらく意図的なもの
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FF8は、直感と調査を繰り返して意外な真実に気づく喜びを味合わせるために、様々な要素を敢えて難しく調整している
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FF8はチグハグどころか、実は1つのコンセプトのもとに徹底的に構築されたゲーム
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だと言えるだろう。よく不完全だと言われるFF8だが、実はまったく逆だ。FF8は完成度が高い。ただ根本的にマニアックなのである。
だが、そうなると新たな疑問が浮かぶ。
FFという大衆向けRPGで、そういうマニアックな構造を採用するという発想自体が間違っているのではないだろうか?
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これは尤もな疑問だ。しかし、
よくよく考えれば、FFは今も昔も、大衆なんて意識せず、とにかく自分たちが作りたいものを作り続けてきた
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そもそもFF1→FF2の時点で、FFが旧作ファンの保護よりも、一か八かの挑戦にウエイトを置いていることは明らか
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個人的に思うのだが、
…実は、FFが和製RPGの代表的な一作品として扱われていること自体がイレギュラーなんじゃないか?
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インディーで頑張っていたら口コミで人気が広まり、いつの間にか全国区に。有名になっても昔の精神(=我武者羅に新しいものに挑戦)を忘れないのは立派だが、インディー時代を知らないファンのほうが多すぎて、その姿勢が逆に叩かれる原因になっている罠
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そんな気がする。
そんな訳で、個人的には、FF8は今のままで構わないし、この先もFFシリーズには我が道をとことん突き進んでもらいたい……そう思う一方で、
“もしも”が許されるなら、ぜひ丁寧で親しみ易いFF8を遊んでみたい
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という気持ちもあるんだよなぁ。丁寧で親しみ易いFF9とかも遊んでみたい。
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