DQFF考察
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いきなり結論に入ろう。
FF3の物語上の最大の魅力は“未知の不思議との出会い”
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だ。
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まさか小人の世界があって自分たちも魔法の力で小人になれるなんて!
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まさか竜の巣にさらわれてしまうとは!
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まさか自分たちの住んでいた世界が世界が浮遊大陸だったとは!
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まさか自分たちの外側の世界には大陸が1つもないとは!
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まさか外側の世界で大陸が浮き上がってくるとは!
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湖に影だけ映る謎の生き物…あれは一体なんだ?
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まさか寝台や大砲、さらには自販機まで揃った巨大戦艦とは!
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まさか潜水艦を使って海底世界を冒険できるとは!
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そう、FF3は、
を形にしたゲームなのだ。
FF9のシナリオを突詰めると、
という部分に行き着く。
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ジタンから色々と大切なことを学んだビビ
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ジタンに感化されて自分らしさを出しはじめたダガー
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最初のうちは偏見からジタンを徹底的に嫌うスタイナー
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盲目的にジタンを慕うエーコ
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思いっきりジタンのかませ犬になっているサラマンダー
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ジタンの頼れる相棒フライヤ
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ジタンの素晴らしい仲間たちであるタンタラスの面々
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ジタンに大切なことを教えてもらったミコト
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ジタンを洗脳しようとしたガーランド
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最後の最後で宿敵ジタンに助けられたクジャ
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ジタンに真っ向から否定される永遠の闇
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ただし、FF9をジタン物語と捉えた場合、とても大事なものが欠けている。
だから、「誰かを助けるのに理由なんているのかい?」を筆頭とするジタンの数々の名台詞が、どのような動機からの発言なのか、よく分からない。
どういう発想で、その最も大事な部分を省いてしまったのだろうか? まだまだ考察の余地がありそうだな。
結論から入ってしまえば、
DQ1〜3 | 英雄大活躍体験シナリオ |
DQ4〜5 | 華々しい活躍を上げた英雄が裏で背負う悲しみ堪能シナリオ |
DQ6〜7 | 冒険者的な好奇心充足シナリオ |
まずDQ1〜3は、
DQ1 | 俺は先祖の名に恥じぬよう立派に世界を救う! |
DQ2 | 俺たちは先祖の名に恥じぬよう立派に世界を救う! |
DQ3 | 俺は親父の名に恥じぬよう立派に世界を救う! |
DQ1〜3の魅力は、悪を倒して人々に感謝されるという英雄物語の旨味を堪能するところにある。下手に主人公や仲間の葛藤を物語に組み込んだら作品として破綻するだろう。
続いてDQ4〜5は、
DQ4 | 家族も恋人も殺された勇者。だが、仇であるラストボスもまた恋人を失い暴走していた…。 |
DQ5 | 父の死、奴隷生活、石化…。苦労を重ねたが、なんとか父の生涯の目的だったマーサの近くまで来たとき…。 |
どちらも、世界を救った大英雄の、当事者しか知らない悲しみの物語だ。DQ1〜3を英雄の光の面だとすれば、DQ4〜5で描かれているのは英雄の闇の面である。
そしてDQ6〜7は、
DQ6 | お遣い途中で偶然に発見した“幻の大地”。あれはいったいなんだろう? |
DQ7 | 前々から気になっている“謎の神殿”。あれはいったいなんだろう? |
“英雄”というよりも“冒険者”に近いのがDQ6〜7の主人公像だ。
DQ8がどんな路線になるのか楽しみだな。
前稿で書いたように、DQ6とDQ7はどちらも“好奇心”を起点に冒険がスタートする。ところが、
DQ6では、実際にはゲーム冒頭時点で既に主人公vs大魔王軍という構図が出来上がっている。大魔王軍は着々と世界征服の準備を進めており、主人公は何もしない訳にはいかない
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DQ6は好奇心を起点としつつ、それで終わらせないような物語になっている。
一方DQ7は…、
DQ7では、そもそもゲーム冒頭時点でグランエスタード島だけとはいえ平和な世界が出来上がっている。アルスが動かなければ世界は平和なままなのだ
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DQ7は、DQ6でまだ残っていた“世界を救うという義務感”すら外してしまった。アルスたちを突き動かすのはひたすらに好奇心である。
そして恐ろしいことは、
ウッドパルナ開放によって世界に新しい島が増えたが、同時に海に魔物が出没するようになってしまう。…このまま石版の旅を続けたら、グランエスタード島にはもっと大きな災厄が訪れるかもしれない
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アルスたちが冒険を望まなければ、世界は平和なのである。このまま自分たちが冒険を続ければグランエスタード島は大きな危機に見舞われるのかもしれないのである。でも、だからといって、ここで冒険をやめることができるか? 全ての世界を開放した末に何が起こるか知りたくないか?
そう! DQ7は“この先なにがあろうとも、とにかく結末を知りたい”という一点において、アルスとプレイヤーの気持ちがシンクロしているのだ。
そして、この“リスクよりも好奇心が勝ってしまった”という現象が、DQ7のサブタイトルに大きな意義を与えることになる↓。
DQ7のサブタイトルに登場する“エデン”とはもちろん聖書に出てくるエデンの園から取ったネーミングであろう。
その意味は、一般に、
平和な世界であるグランエスタード島をエデンになぞっている
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ことだと言われている。筆者もその解釈が妥当だと思っていた。
だが、前稿で“リスクよりも好奇心が勝ってしまったのがDQ7”だと書いたときから、その思いがほぼ確信に変わった。
聖書において、
アダムとイブは、好奇心から知恵の実に目をつけ、蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまい、エデンの園を追放される
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一方のDQ7は、
アルスとマリベルは、好奇心から謎の神殿に目をつけ、冒険の末に大魔王が本性を現し、グランエスタード島の平和な日々も終わりを迎える
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そう、
DQ7は聖書というモチーフを見事に消化している。だが、それだけでは単なる悲劇だ。DQ7はそこで話を終わらせない。
世界の真の平和のために、アルスたちの冒険がもたらした平和の一時的な破壊は必要なものだった
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DQは、どこまでいってもDQなのである。
補足 | オルゴデミーラのモチーフは、アダムとイブをそそのかした蛇かもしれない。怪物形態の彼には足がないし。人間形態のモチーフはデミウルゴスかな? |
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