なぜファイナルファンタジーで『愛』をテーマにするのか? テーマが『愛』なら、なにもFFに限らなくてもいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。だが、それは大きな誤解だ。
FFシリーズは、他の多くのRPGと同じように、戦いの物語だ。クリスタルに導かれて戦ったFFもあれば、極めて個人的な動機から戦ったFFもあった。戦うの動機こそ作品ごとに違うが『敵と戦う』という大枠を外れたことはなかったのである。
FF8のテーマは『愛』だが、そのテーマを描くために『敵と戦う』という大枠を放棄したわけではない。というよりも、命を賭けて強大な敵と戦うための動機、リスクを承知で危険に立ち向かうための動機が『愛』である。
つまり、
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FF8はあくまでFFシリーズの一員なのだ。
補足 | いわゆる恋愛SLGは、主人公がヒロインを振り向かせるまでの過程がメインになっている。だがFF8では、先に惚れるのは主人公ではなくヒロインだ。ヒロインの熱意が主人公を振り向かせるのである。この点だけをとってみても、FF8を、いわゆる恋愛SLGと同カテゴリーと見做すことはできないことが分かるだろう。 |
スコールとリノアの暴走ぶりだけを見てFF8のテーマ『愛』を理解したようなつもりになるのは勿体ない。というのも、
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FF8はテーマ『愛』を様々な角度から描こうとしているからだ。
『愛』という言葉を男女間の感情に限定せず、大人の子供に対する愛情を描いたのは、FFシリーズではFF8が初めてではない。例えばFF6では、ティナとセリスという2人のヒロインを使い分けることで、男女間の愛情と大人の子供に対する愛情の両方を描こうとしている。
FF8のFF6と大きく違う点は、『愛』に絡めて、子供から大人に成長しつつある不安定な年頃の少年少女の横顔を描こうとしている点だ。10代というのは色気づく年頃であると同時に、守られる立場だった子供から守る立場の大人へと変化する移行期間でもある。
その意味で、サイファーの迷走、キスティスの挫折、アーヴァインの悩みといった、一見すると『愛』とは関係ないようなエピソードもまたFF8には必要なのだ。
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ここまでの考察を総合して思うに、FF8がスコール編で挑戦したことは、ヒロイックな物語を描くことではなく、ジュブナイルな物語を描くことだったのだろう。
よくある語り口を使えば、
かくしてスコールはアルティミシアの脅威からリノアを守ることに成功しました。 でも若き魔女と騎士の受難の物語はまだ始まったばかりなのです。 それぞれが抱える父親との問題をどう解決するのか。 人々の魔女に対する偏見と不安感をどう乗り越えるのか。 ティンバーの独立という大きな目標もあります。 彼らの前途はまだまだ多難です。 …でも大丈夫。 彼らは互いに支え合うパートナーがいます。 共に戦ってくれた仲間たちがいます。 未来の魔女という大きな脅威と向き合う中で培ってきた愛と友情は、 今後も大きな力になってくれるでしょう。 粗削りだけど情熱だけなら誰にも負けない若き魔女と騎士の未来に幸あれ。 |