物語が錯綜する理由

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なぜ個々のエピソードの繋がりが悪いのか

 

FF8のシナリオには特徴がある。

  1. 説明不足
  2. 前の謎が解ける前に新たな謎が姿を現す。謎が消化されないうちに物語が進んでしまう。

普通なら「ダメシナリオ」の一言でお終いなのだが、頭が痛いことに、FF8はわざとそういう物語にしてしまっている。
 
まず、物語前半の説明不足は、

スコール「どうして俺に聞くんだ! 分からないのは俺も同じだ! 俺は、なにも知らないんだ。なにも…知らないんだ。だから…騙される。だから…利用される」

この台詞のための伏線だ。
 
物語後半の説明不足は、

シド「イデアの話しをよく聞いておいてくださいね。いつ、また、心を乗っ取られるか…」
スコール(もういいだろ? ママ先生の話しを聞くのは大切。そんなこと分かってる。でも、リノアが…)

要するに、スコールがそれほどリノアに熱中していることの裏返しだ。
このようにFF8は、スコール視点だけでは物語の全貌が分からない。スコール視点で補えない情報を、チュートリアルやサブイベントでフォローしているわけだ。
 
また、1つの事件が終わらないうちに新たな事件が次々に起こってしまうのは、

スコール(…またかよ。また、訳の分からないことで、俺は混乱する)「どうして俺なんだ!? 俺はいま自分のことで精一杯なんだ! 俺を、俺を巻き込むな!」

謎が雪だるま式に膨れていく戸惑いを、プレイヤーだけではなく、スコールも感じている点に注目して欲しい。

スコール(今は一人で大丈夫。生きていく手段も身につけている。もう子供じゃないから何でも知ってる…。ウソだ。俺はなにも知らなくて混乱してる。誰にも頼らず生きていきたい。それにはどうすればいいんだ? 教えてくれ…誰か教えてくれ。誰か? 結局……俺も誰かに頼るのか?)

スコールは混乱の極地だ。そんなとき…、

リノア「なんでもいいの! そう、なんでもいいの。なんでもいいから、もっと私たちに話してってこと。私たちで役立てることがあったら頼ってね、相談してねってこと」

極端なことを言えば、雪だるま式に謎が増えていかなければ、スコールはリノアに振り向かなかった可能性もあるわけだ。

スコールの視点に注意

Disc3のクライマックスでラグナが『愛と友情、勇気の大作戦』を発表した。愛は誰のことを指すのか分かり易い。勇気も言いたいことは分かる。だが友情は?
 
FF8をさらりと遊ぶだけだとラグナの言う友情が誰の何を指す言葉なのか分からない。じっくり遊んでようやく、

  • ゼルはスコールに心から感謝している。D地区収容所で撃たれそうになったところをスコールに助けられたからだ。
  • アーヴァインはスコールに心から感謝している。Disc2でF.H.のアーヴァイン単独行動の際に彼の心境が聞ける。
  • キスティスは先生視点が抜けずに困っていたが、Disc3では元教師ではなく仲間としてスコールを叱責している。

ラグナの言う友情の意味が分かってくる。
 
なぜFF8は、友情という大事なキーワードを、普通に遊んでいると気づかないような、さり気ないエピソードに仕込んでいるのか。その謎を解く鍵はニーダの言葉にある。

  • Disc2でニーダが「あんた、意外と慕われているんだぜ」と語る。
  • 実はニーダの言葉はガーデンの一般生徒だけを指した言葉ではない。
  • ゼルやアーヴァインもスコールを慕っているが、スコール自身はそれに気づいていないのである。

なぜスコールは仲間たちの強い好意に気づかないのか? それはおそらく、物語前半のスコールは友情に興味なく、物語後半のスコールはリノアのことで頭がいっぱいになってしまったからだろう。
 
FF8の主人公はスコールだが、FF8はプレイヤーが主人公と一体化することを必ずしも望んでいない。時には主人公の立場から一歩引いて、主人公が気づいていない部分を観察してみることも必要だ。

補足・プレイヤーと主人公の関係

4作目以降のFFは、どう考えてもプレイヤーが主人公になりきって遊ぶことを推奨しているようには思えない。プレイヤーと主人公は明らかに別人格だ。
 
この『プレイヤーと主人公は明らかに別人格』という、もはやFFでは定番になりつつある構造を、FF8は逆に利用しようとしたのかもしれない。

  • サイファーの構えがラグナと同じことにスコールは気づいていない(意識不明に陥ったリノアのことで頭がいっぱいになっていたため)。そのことに気づいて驚くのはプレイヤーの担当である。
  • ラグナは『愛と友情、勇気の大作戦』と言うが、この場合の友情とは何を指す言葉なのか。スコールはリノアのことで頭がいっぱいなので深追いしない。疑問に思うならプレイヤーが自ら調べることだ。
  • なぜ諸地域や人物の情報がチュートリアルという形でまとめられているのか。それはおそらくスコール自身は知らず、また興味もないことだからだ。FF8世界の地理や歴史が気になるプレイヤーは自らの手でチュートリアルを調べていかねばならない。
  • スコールは一番肝心なリノアが惚れた理由を覚えていない。「ああ、あのシーンか!」と思い出すのはプレイヤーの仕事だ。

FF8のシナリオには、スコールが気づかなかったり興味がない部分をプレイヤーが自分の手で探っていくという面白さがある。主人公とプレイヤーの役割分担が明確なわけだ。
 

補足FFシリーズはよく『ストーリーに介入できないのでイベントシーンでは見ているだけになる』と批判される。そこでFF8はプレイヤーに推理の余地を与えることで『見ているだけ』の状況を打破しようとしたという推測もできるな。

なぜ時間圧縮は意味不明なのか

 

個人的には、時間圧縮は意味不明なこと自体に意義があるのではないかと思う。

  • FF8の魔女は『得体の知れない不気味な存在』として描かれている。だから人々は魔女を怖れ、魔女は孤独になりがちなわけだ。
  • FF8の世界はなんだかんだで擬似魔法が普及しているので、普通に魔法が得意なだけではちっとも不気味じゃない。

要するに、FF8の魔女には“原理不明の大技”が不可欠なのだ。時間圧縮は、理屈では説明できないこと、理屈では有り得ないこと自体に意味があるのではないか。

『学生』という設定の重み

 

スコールたちはまだ学生だ。この“学生”という設定は想像以上にゲーム内容に強い影響を及ぼしている。
 
考えてみてほしい。ガーデン内では年配のほうに属するスコールやキスティスも、やがてガーデンを卒業して社会に出れば新人に逆戻りだ。FF8は主人公たちが学生だったために粗削りな半熟ヒーローとして描かれたのである。
 

補足そう考えるとG.F.による戦闘力の強化という設定はますますFF8に相応しいアイディアに思えてしまう。スコールは世界を救った英雄だが、その強さはG.F.に依存するところが大きい(ゲームをやり込まない場合)。各国の軍隊ではG.F.の利用は禁止されているため、もしガーデンを卒業し、どこぞの軍隊に入ったら、世界を救った圧倒的な力は利用できなくなる。『世界最強の英雄が下積みに逆戻りかよ!』というツッコミを無効化できるのだ。
補足2FF8世界の大人たちは情けない。イデアは例外として、逃げたシド、親ばかなカーウェイ、政務に忙しくエルオーネのことまで手が回らなかったラグナ…etc。人生経験を多く積んでいる彼らですら穴だらけなのに、たかが学生のスコールたちが完全無欠のヒーローとして描かれるのは変だろう。FF8は理想的な人間を描くことよりも、等身大の人間を描くことに力を入れたのではないかな。

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